職業訓練校は、離職した社会人が新たな技術を学ぶことで、「仕事」ともう一度向き合う場所。これまでどんな職に就き、なぜ離れ、学びなおすことにしたのか。働くということを今どう感じているか。
さまざまな背景をもつ同級生に話を聞いてみました。
第1回は50代のTさんです。

教室で異彩を放つ「頼れるアニキ」
「エッフェル塔自体の著作権はもうないんだけど、エッフェル塔の夜の照明の著作権は発生する場合がある。だから、パリの夜景の映像に映り込んでると、許可とったか?!ってなるかも。映っちゃいけないものが映ると大変な場合があります」。ある日の動画撮影の授業で、体験談を話していたのは、生徒の田中さん(51)。映像業界に精通し、講師からも頼りにされる田中さんは、金髪でひげもじゃ、20〜30代の若者が多い教室では異彩を放す存在。面倒見がよく、パソコンの買い方、休んだ日の授業の内容、ハローワークの制度などを丁寧に教えてくれる、「頼れるアニキ」です。
田中さんは27年間、CMや広告映像、映画や専門チャンネルなどを扱う大手の映像制作会社に勤務。「面白いCM映像をつくりたい」と、四国の大学と大阪の専門学校をかけもちし、7回の面接をパスして入社した会社でした。総合責任者であるプロデューサーと演出職のディレクターを兼務しながら、予算やスタッフの管理、コンテや台本の作成に映像編集など、朝も夜もなく働いてきました。グループ会社になったCS専門チャンネルの担当を命じられたときには、親会社からきた新参者だと警戒され、業界の古株スタッフに冷遇を受けたことも。「僕にとって、収録は試合と同義です」「この世界が脚光を浴びるときに、より良い番組をつくり、ファンをもっと増やせるように精進します」と訴え、少しずつ理解者を増やしていきました。
退職を意識し始めたのは、2011年。東日本大震災、そして、ヘルニアを患い会社で倒れ、寝たきりのまま、1ヶ月半の在宅勤務を強いられた38歳のときでした。「この仕事をいつまで続けられるだろうか」「動けなくなったとき、どう生きていこうか」という気持ちが交錯。子どもが成人する10~14年後を退職の決断のターニングポイントと定めました。
2024年3月、50歳のタイミングで「このままでは定年退職後の自分が見えない」と早期退職。「10年先、20年先、もし動けなくなっても、孤独で暇な老人にならずに、生きていきたい。新しいことを学んで、人が自然に寄ってくることをやろう」とドローンの免許を取得し、ウェブだけでなく、デザインツールなどを「マルチ」に学べる職業訓練校に通い始めました。
「誰かを喜ばせ、自分自身も熱中したい」
慣れ親しんだ環境を手放し、年下のクラスメイトと学びなおす状況をどう感じているのでしょうか。聞くと、「俺は、いつでもペーペーだから」と予想しなかった答え。転勤族の子どもとして、小学校を4回も転校、その度に新しい文化の中に入ってきた原体験があります。「人との相性はどんな場所でもある。どこであっても、自分を見出してくれる人が1人でもいたら、ありがたいと心から思う」。今後、映像の仕事をするかも決めていないそう。「極端な話、仕事はなんでもいい。どこにいても、何をしていても、誰かを喜ばせ、楽しませ、自分自身も熱中する。それがエンタメの世界で、たくさんの人に出会い、教えてもらって、身につけられた唯一のこと」。
会社員人生でやり残したことが、一つだけあります。「東日本大震災が起きた時、募金を呼びかける短い映像しか作れなかった。だから、もっと自主的に社会に貢献できることがしたい」。訓練校の課題で作成した自身のホームページのタイトルは「50歳からやってみた!」。退職して知った、税金や雇用保険などの知識やハローワークで得られた経験なども、忙しく働いてきた同じような立場の人に伝えたい。「誰かが面白がってくれて、役に立てたら嬉しいじゃん」。